昭和42年9月8日 朝の御理解



四神金光様が教えてくださる御教えの中に、「大海のような信心をせよ」とこう仰る。大海には鯨が住もうが、竹の筒に水が貯まったような信心では、ぼうふらぐらいなものしか湧かない。大きな信心をせよと仰るのです。大海のような信心をせよと。大海には鯨が住もうがと。お互いがその、鯨の住むようなおかげ、大きなおかげを目指さなければいけません。それには、勿論、大海のような信心さしてもらわなければ、小さい、竹の筒に水がたまったような信心。それではやはり、ぼうふらくらいしか湧かん。大海のような信心とは、言うなら、大きな信心というのは、どういう信心を持って、えー、言うかという事をいつも頂くわけですね。そすと、大海が、例えていうならば、どんなに汚い水が、例えば、汚いものが流れ込んできても、それを、平然として受けておる。黙って受けておる。こういうものは流れてきては困る。こういうようなものを、が、流れてきたのは困るというようなではなくて、どういうふうなものでも黙って受けれる、大きな心の事だと、こう思うんですけれども。けども、それがその、黙ってそれを受けるという、その事の内容がですね。それだけではいけないなあという事を私、一度感じました。ね。だまーって、えー、良しもあしも、自分の心の中に、いわゆる、清濁あい呑むというような、大きな心で、えー、日々を処していくと、日々をそういう風にして行くというようなことで、その中に、受けていくところの中に、信心がなからなければならないと言う事なのです。ね。皆さん、やはりそこんところを一つ、本気で稽古なさらなければいけませんよ。ちょっとした事があると、もうそれを言い訳しなければおられない。ちょっとした事があるともう、おー、腹を立てなければおられない。ちょっとした事があるともう、それをしっぺ返しに、言うて返さなければ、心が修まらない。これは、心の小さい証拠ですから、ね。なるほど、そういう信心を竹の筒に水が貯まったといったような信心だろうと思います。おかげは受けております。それは坊、大きなおかげ、ぼうふらぐらいのおかげであっても、ね。神様の仰るぼうふらですから、随分、やはりそれでも大きなおかげだと思いますけどね。ですから、自分の信心を検討させてもらう。ほんとに、なるほどこれでは、たったこのくらいの事がいらいらする。たったこのくらいの事が腹が立つ。たったこのくらいの事を言うて返さなければ心が修まらないというような、ちっぽけな心ではおかげにならない。そのようなことが、黙って受けるだけじゃ駄目で、有難く受けれれるという信心。そこに私は、信心の稽古があると思いますよねえ。それは有難く受けていくという信心。
昨日、ああー、ちょっと御祈念に、んー、形が一通り済んだころでございましたでしょうか。久富正樹さんが、あー、今度新しいダンプカーを買いました、新車を。それでその、お願いに参りました。その時に、頂きますことが、えー、池から堤になって、堤に変わっていくようなおかげを頂かなければならない。あんたが、これが信心だとおもい込んでおる事を、ね。そこんとこを、もう一つ、もっと、本当の信心へ一つ進まなければならない。そこから、堤のようなおかげが頂けれるだろうと。私は、それを頂いてですたいね。思うんですよ。なるほど、大海のような信心というのには、もう過程があるんだなあと言う事ですよ。ね。まあ、こう、ちょっとした水溜りがあるとすれば、それが池とこう申します。だから、まあ、ここでは信心の、まあ、ある意味合いでは、あー、手本のように言われておるですね、正樹さんあたりの信心は。なるほど良い信心です。また、大きな信心をしていいると思います。ね。けれども、ほんなら、神様は、もうもっと実物は小さいかも知れんけれども、まあこの、まあ現在頂いておるのは、池に水がたまっておりるような信心である。ね。ですから、こういう信心から進むというたら、また、こら、溜池ですから、例えば、あー、何町、な十町部の反でも水が掛けられる為の、その用水が蓄えれれるだけに大きいのですね。池というのは、ね。えー、もう信心はこれだとこう、決めて掛かるなと言う事です。ね。例えば、信心とは、これで良いんだとか、信心とはこうなのだと、決めておってはならないと。ね。その信心が、嘘ではないけど、ね。そういう信心を段々さして頂いて行くうちに、は、これはまあだ本当ではない。もっと、本当の信心があるんだと。もっと、大きなおかげを頂くためには、ここの信心をもう一段高めた信心にならなければいけないのだという風にですね。池の信心から、堤の信心にならしてもらわなければいけない。堤の信心、ね。それは、なんと申しましょうかね、もう本当に、いー、堤という字は土辺に是という字が書いてある。是、土というわけです。池というのは、さんずいに也という字が書いてある。そのわけを申しますと時間が掛かりますから申しませんけれども、さんずいというのは自然ですよね。也というのはあの、何円也というふうに、也というのはそこで終えた。ここで決ったという意味なんです。ね。ですから、信心はこうだと。そら、確信しておることは良いですけども、確信しておることでも、それが取れて、次の確信へ移っていかなければならない。もっと素晴らしい確信へ。ね。神様を信ずる、もう、信じきっておると言うても、これくらいの信じ方ならば、このくらいの信じ方があるという事である。ね。そういえば、正樹さんの信心には、なるほど、そのう、どんなに小さい事でもですね、それが全然違っておることもないこともない場合がありますけどね。その点は、正しいところを思い込んでおるという感じですね。けども、その思い込みがです。まだ小さい。そら、池のようだもの。もっと本当のところがあるんです。私が思い込んでおると言う事も、なら、これは、もっと大きな私は思い込みというものが育って行かなければならない。神様を信ずると言うても、信ずるその力というのが、百信じている人もありゃ、ね、千信じておる人もあるのに、それこそ、千も万もというようにです。もう、限りなく神様の働きを信じている人もある。ね。ですから、その、自分の信心とはこれで良いのだとか、こうなんだというように決めて掛かってはならない。何時もこれで良いのか、これで良いのかと、その事に猛反省させてもらって、一段と、いや、これが本当だと、聞かせて貰ろうたり、分らせて貰うたら、素直にそこんところを、脱皮して、次の信心に高められていくところの、信心精進努力というものが、私は、なからなければならないと、こう思うのです。今月のあの、あ、先月の、おー、新聞を見せて頂いとりましてもです。ね。正樹さんが、神愛欄に書いておりますのを、皆さんご覧になったでしょうか。もう、非常に反響があったですねえ。本当に、正樹さんの信心を、あのう、わずかばかりの記事の中に、素晴らしい信心だなあ、有難い信心だなあと、と言うて来ております。また、皆がそう言うております。ね。例えば、えー、どういう御用をしておろうが、自動車の運転をしておろうがです。どこを通っておろうがです。時々自分の心の中に、それこそ、心が疼くような神様の有難さを実感すると言ったようなことを書いてありますですね。それほどの信心を頂いておったらです。神様はそれを、ま、池の信心とこう言うておられます。ですから、先ず、池の信心が本当に出来られると言う事は、まあ、これを池の信心の、ほんなら、手本に致しましても良いと思います。ね。けども、池の信心であってはあれだけの事。だから、やはり、堤の信心が出来なきゃならん。ね。
皆さんの信心は、どういう事になっとりますでしょうか。本当にこの、池の信心まででも、頂けたら、実を言うたら、その信心生活が楽しゅうなってくる。有難うなってくる。ね。心がしびれるような有難さを感じれれるように、段々なってくる。してみると、それ以下にまだ、沢山な信心があるでしょうね。洗面器の中に水がたまっておる程度の信心もありましょう。盃に受けておるような信心がありましょう。ね。ただ、何にも信心はないけれども、必要なときに、ただこう、おー、貰い水するように頂いておるといったような信心もございましょう。信心が自分のものになって行くと、その信心の過程というものがです。ね。そういう信心から、初めから先生はおらない。一段一段と信心は、いわば手習いをするように、手が上がっていくのである。だから、そういう信心を、私共が、習わさせても貰って、これで良い。信心ちゃ、こんなもんだと決めてしまってはならない。それが、限りない信心に進んでいかなきゃ。そこに、限りない信心の楽しみも、喜びも、ここに伴ってくると言う事。同時に、限りなくおかげの方もそれに伴うて、進展してくる。大きくなってくる。ね。池の信心、ね。いわゆる、堤の信心。本当にもう、是、土とこう言う。ね。本当に、土のような、豊かな、地に豊かな心の状態。いわばいつも、おー、大地、あの泥に感じるような、あー、内容の信心。そういう信心が段々、自分のものに本当になって行ってです。段々こう、大海のような信心。そういうような心の状態がです、ね。どのような事でも、どのような場合でも、驚かんですみ、それを嫌がらんですみ、それを合掌して、ね。受けていけれる状態。そういう信心に、段々、大海のような信心といわれる内容が出来てくる。一辺に、大海のような信心が出来るはずはない。一辺に、鯨の住むようなおかげを受けられるとは思われない。ね。これは、なるほどそうでございますね。深いとか、浅いとかと申しますが、信心が段々、そういう風にして深められていってこそ、初めて、その、大きな、あー、鯨の住むようなおかげを受けられる。如何に大海でありましても、ね。岸辺のほうの、浅いところで海水浴に行ってから、子供が泳ぐようなところの浅い信心で、私は、大きな魚がすむ筈はないと思う。ね。そら、段々段々、もう、十尋も、もう、百尋もとあるように、段々その深い、もうどこまであの人の信心は深いやら分からん、あの人の心はどこまで大きいやら、深いやら分からないと。というような信心が有難く、深く、広くなって行くところにです。私は、鯨の住むようなおかげを受けられると。ね。小さい魚しかいない。それは自分の信心が浅いから、ね。自分の信心が狭いから、であると悟らせて貰って、ね。大海のような広い、深い信心にですね、ならせていただくために、いよいよ信心を高めなければならないと言う事は、いよいよ信心を深めねばならないと言う事と同じこと。深く高められして行くところ。そこに私は信心の喜びというものがですね。それこそ、心がしびれるように、有難さが感じれる信心をさして貰い、本当に、無尽蔵と仰る、無限な神様のお恵みが受けられる。いわゆる、鯨の住むようなおかげを受けさせて貰うて、そういうおかげを、あの世にも、この世にも残しておけれると言われる、おかげにして行きたいものだと、こう思います。いつも、大海のような信心という事をいつも頂いてまいりますとですね。だから、一辺に大海の信心を、と言うても、そら、なかなか、やっぱ、一足飛びの信心ですから、先ず、私はね、池の信心。そして、その次の信心というように、進んでいくために、自分が信心はこうだぞと、もう、信心はこうあろうと言うてから、気を付けるもんじゃないと言う事。私はかく思うておる。かく信じておる。そして、かく現在はおかげを受けておる。このおかげを受けておるというものが、もう、答えのようなものですから、ね。ですから、そのおかげを、もっと大きくおかげを受けていけれる信心があるはずである。そういう信心を求め、求めしていかなければならんと思うですね。どうぞ。